2010年2月13日土曜日

大学の質3:質の向上

大学の質って、どうやって向上するのでしょうか?

いい大学はよりよく、
そうでない大学はそこに甘んじる。
というのが原則なのでしょうか。

実際、私の所属する大学の「重鎮」方
は「研究」と「教育」を別物とお考えの
ようです。当然、私は真っ向から反対
の立場。

ま、そのようなことはさておき。

どの大学も「始まり」があるはず。
そして、その「始まり」から大学の
質が決定していたとは考えにくい。

一部例外もありますが。。。。
例:ロカフェラーの後押しで開校
したシカゴ大学。

大学の開校からの歩み、即ち「過程」、
から何か答えが導き出せないだろうか。
一度では書ききれないので、これから
少しづつ。

一つ言える事。それは、「大学の質の
改革は、トップの強力なリーダシップに
よってのみ可能である」ということ。

どういうこと?

それはトップの強力なリーダシップ無し
では、その下にどんなに優秀な教員や
学生がいたとしても「大学の質」は大きく
改善されないということ。

アメリカの場合、非常に難しい話ではあるが、
一つ例外がある。

それは、ある教員が大学の予算の10%以上
に相当するような大きな資金を集めたプロジェクト
を立ち上げた場合。

え、「資本主義」そのものではないですかって?

勿論。アメリカの大学は資本主義で成り立って
います。即ち「教育」というビジネスです。

ふ~~~む。ビジネスの改善・改革として「大学
の質」を上げることは可能だろうか?これも
面白い話。

でも、単純に「ビジネス」として割り切って考える
ことは大変危険である。また、適切でないと思う。

「学会」という認識を崩さず、その中にうまく
「ビジネス改革」の要素を取り入れられるのか。

この辺りについても、折を見て語りたい。

大学の質2:呪いの連鎖

あまり書きたくはありませんが、、、

大学の質の話の続きです。

「機会」に恵まれない大学とは?
答えは簡単。最先端の研究や開発
に触れる機会の少ない(又は皆無の)大学
を指す。

では「呪いの連鎖」を。。。

研究や開発の乏しい大学でも
大学は大学。それなりの場は
用意しなければ成り立たない。
卒論(プロジェクト?)や修士
論文などは必須になっています。
ではどのように用意されるのか?

まず、学生や教員の個人主導的な
研究や開発が中心となる。それは
それでいい。組織的な研究でも
個人的な研究でも研究は研究です。

でも、そこで話が終わる人は1.5流以下。
実はここからが重要。

個人的な研究(開発)は質のばらつきが
大きい。更に、個人的な研究は粒の小さな
ものにならざるを得ない。これは、大学という
組織の観点からみると、「機会」に恵まれた
いい大学と決定的・絶対的な質の違いと
なって現れる。

更に、「教育」を絡めると、、、、
研究(開発)で名を売れない大学は、
いつでもどこでも「教育」で名を売ろう
とする。「うちの大学は教育では負けません。」
という。ふ~~む。果たして本当にそうなのか?

私の個人的見解では、「負け惜しみ」
に過ぎない。大学という場は、これ以上、上(後)
のない教育機関の最高峰(?)です。
この場で研究がない(弱い)ということは、学問
の最前線に参加していませんよと言っている
のと同じ。こんな状態で学生は「いい教育」
を受けれるのか。大きな疑問である。(無論、
個人的な例外は多々ある。)

大学教育とは「いい研究に参加する場・機会」の
度合いで決まると私は強く思う。

「呪いの連鎖」はここから始まる。

研究がない。即ち、研究基金や寄付の獲得は
難しい・不可能。

では大学の運営は?授業料収入と政府からの
補助金のみ。

アメリカの授業料収入は単位数に比例するから、
研究基金や寄付の少ない大学では、当然のごとく
教員一人当たりの担当単位数(即ち授業時間数)が
増える。

授業時間数が増えるということは、研究時間が減る。
一日24時間、一週間7日は皆同じ条件ですから、
これは当然。

研究時間が減るということは、研究基金や寄付の
獲得可能性が(大きく)下がるということ。

更に、授業時間が多い程、授業・講義の準備を
しなければいけない。これはとても時間のかかる
作業です(真面目にやればの話ですが)。

しかし、研究の機会に飢えた教員が、どのように
「質のいい」、即ち「最前線の」、授業・講義の準備
を行えるのでしょうか。

はっきり言います。無理です。

では現実は??

その辺で適当に(教員にしてみれば一生懸命でしょうが)
教科書を見つけて、それに沿って授業・講義を進める。
ま、1・2回生レベルの講義はいいでしょう。でも、それ以上
の専門性の高い授業でそれはちょっと。。。
と思うのは私だけでしょうか。

これは、私の現在所属する大学の悲しい現実。
しかも、「どの教科書がいいか。」が
カリキュラム委員会などでの課題。
「何が、ある分野での最前線か?」
ではないのです。

このように、中学や高校の延長としてのみの
「大学の授業・講義」が出来上がります。そして、
このような授業や講義を経て大学を卒業した学生
が世の中に出て行きます。これらの学生が
分野の最前線で貢献・活躍する可能性は?
また、この「程度」の教育の価値は?

機会に乏しい教員は、最前線からどんどんと
離れていきます。彼らの存在ってなんでしょう?

このおぞましい「呪いの連鎖」の真ん中に、私は
身を置いています。そして、今書いたようなことを
考えています。そして、とても強く思います。
「他に移らないと研究者としての未来はない。」と。

2010年2月8日月曜日

2月の週末

インドから戻って超多忙状態が続いている。
遂に週末まで追いかけてきた。

今週末:急に学会運営委員会開催が判明。
メールのやり取りの中である件について提案
を行ったため、「聞いてないぞ」と言って断る
ことはできない立場。金曜の午後から日曜の
午後までテキサスへ出張:(

来週末:シアトルでラテン系の中高生を対象
としたイベント(会議)で、研究紹介をすることに。
更に、土曜日は子供の通う日本語補習校へ
領事館から視察に。

来来週末:日本語補習校の最後の日。児童数
減少のため、補習校は休校へ。この日が卒業式
と終業式となります。

何とか睡眠時間は死守せねば。。。

2010年2月1日月曜日

大学の質

大学の質の違いは何によって決まるのか?

設備?教員?学生?

僕は「運営と組織」が一番大切だと思う。

学生にせよ、教員にせよ、種々の機会が
彼らを伸ばす・育てる。逆に機会が乏しければ
どんなにいい学生や教員も宝の持ち腐れ状態
となる。

「機会」って?

いろいろあるけど、実社会との協調・繋がりから
持ってくるベンチャーと、未来を見据えた大規模研究
組織が重要かな?

いずれにせよ、人間の活動には金がかかる。
大学での「機会」も例外ではない。
「運営と組織」のしっかりした大学は、「お金」を
「組織」ぐるみでしっかりと取る。そして、それをうまく
「運営」して、最高の「機会」を創る。そこに、いい学生と
教員がいる。そして、彼らがいい研究結果を生み出す。
この流れの中で、いい人がたくさん、しかも続けて育つ。
その人たちが、いい「結果」を生み出すことで
社会貢献を果たす。これら貢献に対して、社会が
寄付などを通じて喜んで大学を支援する。大学は
これを利用して更にいい「機会」を創る。う~~ん、
なんという素晴らしい回帰でしょうか。

では大学での教育について。

上記の流れで、いい研究成果の要点を纏めることで
講義の教材ができる。学生は、生きた最前線知識を
学べる。モーティベーションが上がる。目標ができる。
研究に直接参加する「教育機会」が与えられる。そして、
いい学生が育つ。

では、「運営と組織」がなっていない大学は??
はは、言いたくないけど、今所属している大学
の状態は「最悪」にちかい。この「呪いの連鎖」
はまたの機会に。

私は数年前の研究休暇を、私の専門分野で
全米一の大学で教員として過ごした。本当は
戻りたくなかったけど。。。

戻ってきてからのギャップ、カルチャーショック
は、はっきり言って今も完全に克服していない。

とにかく大学を移らないと、これ以上の自分の
研究者としての確立はない。ここにいれば、
あとは老後に備えながら、引退を待つのみ。

今年を、僕の「研究者人生の大きな岐路」と
位置づけています。

今年の運勢?

インドでのNSFワークショップは実り多いものだった。

2つのワークショップの企画が通った。
1つはインフラ保障(Infrastructure Assurance),
もう一つはFaculty and Staff of Color Conference.

二つとも成功させたい。

でも、とんでもなく忙しくなりそう。。。。。

追伸 ある大学への応募で一次審査を通ったみたい。
    「春よこい!」 さくらの満開に合わせて笑顔満開でいたいものです。