2010年2月13日土曜日

大学の質2:呪いの連鎖

あまり書きたくはありませんが、、、

大学の質の話の続きです。

「機会」に恵まれない大学とは?
答えは簡単。最先端の研究や開発
に触れる機会の少ない(又は皆無の)大学
を指す。

では「呪いの連鎖」を。。。

研究や開発の乏しい大学でも
大学は大学。それなりの場は
用意しなければ成り立たない。
卒論(プロジェクト?)や修士
論文などは必須になっています。
ではどのように用意されるのか?

まず、学生や教員の個人主導的な
研究や開発が中心となる。それは
それでいい。組織的な研究でも
個人的な研究でも研究は研究です。

でも、そこで話が終わる人は1.5流以下。
実はここからが重要。

個人的な研究(開発)は質のばらつきが
大きい。更に、個人的な研究は粒の小さな
ものにならざるを得ない。これは、大学という
組織の観点からみると、「機会」に恵まれた
いい大学と決定的・絶対的な質の違いと
なって現れる。

更に、「教育」を絡めると、、、、
研究(開発)で名を売れない大学は、
いつでもどこでも「教育」で名を売ろう
とする。「うちの大学は教育では負けません。」
という。ふ~~む。果たして本当にそうなのか?

私の個人的見解では、「負け惜しみ」
に過ぎない。大学という場は、これ以上、上(後)
のない教育機関の最高峰(?)です。
この場で研究がない(弱い)ということは、学問
の最前線に参加していませんよと言っている
のと同じ。こんな状態で学生は「いい教育」
を受けれるのか。大きな疑問である。(無論、
個人的な例外は多々ある。)

大学教育とは「いい研究に参加する場・機会」の
度合いで決まると私は強く思う。

「呪いの連鎖」はここから始まる。

研究がない。即ち、研究基金や寄付の獲得は
難しい・不可能。

では大学の運営は?授業料収入と政府からの
補助金のみ。

アメリカの授業料収入は単位数に比例するから、
研究基金や寄付の少ない大学では、当然のごとく
教員一人当たりの担当単位数(即ち授業時間数)が
増える。

授業時間数が増えるということは、研究時間が減る。
一日24時間、一週間7日は皆同じ条件ですから、
これは当然。

研究時間が減るということは、研究基金や寄付の
獲得可能性が(大きく)下がるということ。

更に、授業時間が多い程、授業・講義の準備を
しなければいけない。これはとても時間のかかる
作業です(真面目にやればの話ですが)。

しかし、研究の機会に飢えた教員が、どのように
「質のいい」、即ち「最前線の」、授業・講義の準備
を行えるのでしょうか。

はっきり言います。無理です。

では現実は??

その辺で適当に(教員にしてみれば一生懸命でしょうが)
教科書を見つけて、それに沿って授業・講義を進める。
ま、1・2回生レベルの講義はいいでしょう。でも、それ以上
の専門性の高い授業でそれはちょっと。。。
と思うのは私だけでしょうか。

これは、私の現在所属する大学の悲しい現実。
しかも、「どの教科書がいいか。」が
カリキュラム委員会などでの課題。
「何が、ある分野での最前線か?」
ではないのです。

このように、中学や高校の延長としてのみの
「大学の授業・講義」が出来上がります。そして、
このような授業や講義を経て大学を卒業した学生
が世の中に出て行きます。これらの学生が
分野の最前線で貢献・活躍する可能性は?
また、この「程度」の教育の価値は?

機会に乏しい教員は、最前線からどんどんと
離れていきます。彼らの存在ってなんでしょう?

このおぞましい「呪いの連鎖」の真ん中に、私は
身を置いています。そして、今書いたようなことを
考えています。そして、とても強く思います。
「他に移らないと研究者としての未来はない。」と。